Beginning 3
「辛かったら泣けばいい。」
中嶋が言った一言。
それは、今まで誰も和希に言ってくれた事がなかった言葉だった。
小さい頃から鈴菱の後継者として育てられてきた。
そんな和希に求められたのは、我慢をする事だった。
物心がついた頃から我侭など何1つ通らなかった。
いや、言えなかった。
どんなに寂しくても、悲しくても、辛くても1人でじっと耐えてきた。
嬉しい事や楽しい事があっても騒いではいけなかった。
唯一、感情を出したのはあの幼い日に出会った啓太との日々。
それと、留学中護衛についてくれた竜也さんと暮らした数年間の間だけだった。
そうやって生きてきて、まさかこの歳になってそんな事を言われるとは思わなかった。
正直、戸惑った和希だった。
でも、和希を優しく抱き締め、その胸を貸してくれた中嶋。
自分でも信じられなかった。
人前で涙なんて出るなんて思わなかったからだ。
初めて人前で流した涙は、止め方を知らないように次々と溢れ出した。
いつも間にか声まで出して泣いていた。
初めての体験。
和希を優しく包み込むように抱き締めてくれた中嶋に和希はいつしか心地よさを感じていた。
泣き疲れてそのまま眠ってしまった和希が目を覚ました時、そこには中嶋の姿はなかった。
少し寂しいと感じた和希の心は、ほんの少しだけ軽くなっていた。
朝、いつもより早く目が覚めた和希は昨日保健室でぐっすりと寝たせいかなと思っていた。
目覚めもいつもより爽やかだった。
こんな朝は啓太が七条さんと付き合ってから初めて迎えた朝だった。
そう思えるのは、やはり昨日中嶋さんが思いっきり泣かせてくれたせいだろうと思いながら和希は中嶋に感謝していた。
かなり恥ずかしかったが、中嶋さんには感謝してもしたりないくらいだと思っていた。
今日は心からの笑顔で啓太と接する事ができそうだと感じていた
。
その時、
“コンコン”
ドアがノックされる。
誰だ?こんな時間に?啓太が来るにしては1時間近くも早い時間だ。
不思議に思いながらドアを開けると、そこには中嶋が立っていた。
「中嶋さん?どうしたんですか?こんなに朝早くから。」
「昨日言ったろう?俺の朝食に付き合えと。」
「えっ…?」
和希は記憶を探ってみる。
そう言えば、昨日泣いている時に…
『食堂には行きたくないのか?』
和希は何も言わずにコクンを首を縦に振った。
『なら、俺が一緒に行ってやる。それなら付き合えるか?』
暫くした後、和希はもう1度首を縦に振った。
そんな和希の頭を中嶋は撫でながら言った。
『良い子だ、遠藤。明日の朝、お前の部屋に迎えに行くから待ってろよ。』
「そう言えば、そんな気がする…」
「なら行くぞ。早くジャケットを着ろ。」
「中嶋さん、いつもこんな早い時間に食べるんですか?」
「ああ。早い方が空いてるからな。」
「それは、そうでしょうけど。」
「早く来い。置いて行くぞ。」
「あっ、待って下さい、中嶋さん。」
和希は慌ててジャケットを羽織ると部屋の鍵を閉めて、中嶋の後を付いて行った。
「ちゃんと食べろよ。」
「はい…」
久しぶりの食堂だった。
朝早いせいか、生徒はまばらにしかいない。
この時間帯だったら、まだ啓太も七条さんも食堂には来ないだろう。
第一この時間なら啓太はまだ夢の中だ。
和希はホッとしながら、トレーに載せる料理を選ぶ。
チラッと中嶋のトレーを見ると、鯵の干物に玉子焼きにほうれん草のおひたし、漬物に味噌汁とご飯と純和風のメニューだった。
何となく、中嶋と同じ物が食べたくなった和希は魚を抜かして他は全て中嶋と同じにした。
そんな和希のメニューを見て中嶋は微笑むが、和希はそれに気付かなかった。
食事が終わり、部屋の前まで送ってくれた中嶋に和希はお礼を言った。
「ありがとうございます、中嶋さん。朝ご飯とても美味しかったです。」
「そうか。なら良かった。明日も今日と同じ時間に迎えに来るから支度をしておけ。」
「えっ…?明日も一緒に食べてくれるんですか?」
「迷惑か?」
和希は頭をブンブン振る。
「そんな、迷惑だなんて思ってません。俺、今日中嶋さんと一緒に朝ご飯食べられて嬉しかったんです。」
「そうか…」
中嶋は嬉しそうに笑うと、和希の頭を撫でる。
「なら、暫くは一緒に食べよう。いいな。」
「はい。」
和希は嬉しそうに笑いながら答えた。
「それから、暫くは昼休みに学生会室に来い。」
「えっ?」
「丹羽がサボったせいで、仕事が溜まってるんだ。頼みにしていた伊藤は最近は学生会よりも会計に行くんで人手が足りないんだ。」
「はい、俺でよければ構いませんよ。」
「そうか。助かる。昼飯を何か買ってから学生会室に来い。いいな。」
「えっ…解りました。」
「遅刻しないで学校に行くんだぞ。」
「は…はい…」
それだけ言うと中嶋は自分の部屋へ帰って行った。
1人残った和希は中嶋がいなくなるまで見送った後、部屋に入ると首を傾げた。
「昼は学生会の仕事を手伝えって、それってもしかして俺に昼ご飯を食べさせる為?」
心の中はまだ七条への想いでいっぱいな和希だったが、けして埋まらないと思っていた心に中嶋はすんなりと入ってきていた。
けれども、その想いに和希はまだ気が付いていなかった。
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