どんな微笑よりも…25

「お帰りなさい、中嶋さん。」
和希はそう言うと中嶋から鞄を受け取る。
毎晩の風景だ。
部屋に向かって歩き出す中嶋の後を和希は黙ってついて行く。
部屋に入った中嶋の着替えを手伝っている和希に中嶋は言った。
「今日は社交ダンスを習ったのだろう。」
「あっ、はい。ステップがなかなか上手く出来なくて…」
「そうか。あれは慣れだからな。」
そう言うと会話が途切れる。

中嶋は週1度和希に社交ダンスを習わせていた。
もちろん、自宅で教えてもらうものだった。
和希は上手くできないと言うが、教えている先生に言わせるとかなり筋がいいらしい。
教えるのが楽しみだと嬉しそうに中嶋にその先生は報告していた。
最初、和希はどうして自分が社交ダンスを習っているのかよく分からなかった。
自分にはそういう世界は無縁だと思っていたからだ。

でも…
この家に、中嶋の家に引き取られてから和希は様々な教育を受けさせてもらっていた。
借金のカタで来ただけなのに、どうしてこんなにも色んな事を学ばせてくれるのだろう。
不思議に思っていた和希。
しかし、中嶋と一緒に生活していればそういう場面にも出くわすかもしれない。
その時に恥をかかないようにしているのかもしれない。
和希はそう思うようになってきていた。


涙が頬を伝わる感触に和希は目を覚ます。
明るい日差しがカーテン越しから零れていた。
「もう朝なんだ…」
和希はそう呟いた。
「社交ダンスか…せっかく中嶋さんが習わしてくれたのに、こんな足じゃステップすらできない…」
和希はそう言いながら、自分の足をさすった。

夢に出てきたのは短い間だったけれども、幸せに彩られた中嶋との暮らし。
あの頃は気付かなかった想い。
中嶋にいつ無理矢理抱かれるのかと怯えていた日々。
けれども、怖いと思いつつも中嶋に抱かれる事に喜びを感じていた。
『好き』と言う言葉は1度ももらった事はなかったけれども、和希の状態をみてけして無茶な抱き方などしなかった中嶋。
そんな中嶋の気付かせない優しさなど、当時の和希は分からなかった。

でも…
今なら分かる。
伝わりづらい中嶋の優しさが…
けれども、全てはもう遅いと和希は思っていた。
中嶋は和希を鈴菱家に戻してしまった。
そして知ってしまった事実。
中嶋は和希を鈴菱家に戻す為に必要な教育を和希に身に付けさせていた事を…
和希を鈴菱家に戻した後、お礼にと謝礼をもらっていた事を…
そして気付いてしまった自分の想い。
中嶋の事が好きだという想い。
けれども、こんな身体になってしまった今の和希が中嶋に何を言えるのだろうか?
中嶋の何に答えられるのだろうか?

和希の頬を新しい涙が伝わっていた。
「忘れなくちゃいけない…」
そう思った時、ドアをノックする音と共に石塚が部屋に入って来た。
「おはようございます、和希様。お目覚めのようですね。」
「おはようございます、石塚さん。」
和希は石塚に向かってニッコリと微笑む。
「今日はとてもいい天気ですよ、和希様。今お着替えをお手伝いしますね。」
「大丈夫。1人でできるから。服はいつもの所にあるんですよね?」
そう言って慌てて立ち上がろうとした和希はバランスを崩して倒れそうになる。

そんな和希を石塚は支える。
「ご無理をなさってはいけません。」
「心配症ですね、石塚さんは。俺は大丈夫ですから。」
「いいえ。いくら1人で歩けるようになったとはいえ、まだ長い時間立ったり、歩いたりするのは無理です。少しは私にお手伝いをさせて下さい。私は和希様の執事なんですから。」
和希は困った顔をして笑った。
「もう十分にしてもらってますから。俺は石塚さんがいなかったらこうして立つ事も歩く事もできなかったんですよ。」
「いいえ、全て和希様の努力の成果です。よくここまで頑張って下さいましたね。」
「そんな…」
「あの事故でご不自由な身体になったのに、それにも負けないでよくここまで回復なさって…お医者様も驚いておいででしたよ。まさか歩けるようになるとは思わなかったと仰ってました。」
「歩けるっていったって、引きずりながら時間を掛けてです。移動は主に車椅子ですし。石塚さんには迷惑ばかりかけてしまって申し訳ありません。」
「これが私の仕事ですからお気になさらないで下さいね。」
石塚は優しく微笑んだ。

あの事故…
数年前に和希が車で引かれた事故により、和希は鈴菱家の後継者から外された。
元から、後継者になりたいと思っていなかった和希は傷つきもしないでその事実を受け取っていた。
後継者には和希が見つかる前に決まっていた和希の義妹の鈴音の婚約者である久我沼がなる事に正式に決まった。
もう用済みの和希は自分はこれからどうなるのだろうかと思っていた。
だが、和希の実の父の計らいでここに永住することになった。
ここは、小さな村だった。
リンゴ畑で生計をたてている農家が数件あるだけの小さな村。
鈴菱家の所有地だった。
そこには鈴菱家の別荘がある。

和希は今そこで生活をしている。
和希の実の父がこの所有地全ての名義を和希のものにしてくれたのだった。
ここでの収入だけで生活するようにと和希に伝えた。
その事は鈴音も久我沼も承知していた。
身体の不自由な和希はもう鈴菱家の後継者にはなれない。
もうどうでもいい存在になっていた和希の事など鈴音も久我沼も気にも留めていなかった。
それに鈴音と久我沼にとって鈴菱家のこんなちっぽけな土地など興味すらわかなかった。
和希がその土地をもらってそこで静かに暮らそうがもう関係のない事だった。
もっとも鈴音も久我沼も和希も知らない事だったが、和希の執事として和希の世話をする石塚には和希名義の多額の金額が入っている通帳が渡されていた。
おそらく和希がどんなに贅沢に暮らそうが使えきれない位の金額が入っている通帳だった。
それが、和希の実の父が和希にした最初で最後の親らしい事だった。
そう…
和希はもう2度と実の父と母に会う事はなかったのだから。
鈴菱家にとって役に立たない和希の事を実の父も母も見限った事を和希は知らないでいた。






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