どんな微笑よりも…27
「初めましてか…」
そっと囁かれたその声に和希の身体がビクッと震えた。
その声は…
忘れたくても忘れられない愛しい人の声…
でも、その人は今頃はきっと実家の病院で働いているはず…
そう…
間違ってもここにはいない人なのだから…
「和希。元気だったか?」
もう間違いではなかった。
この声は中嶋の声に間違いなかった。
「…中…嶋…さん…」
「そうだ。久しぶりなんで声を忘れたのか?」
「…いえ…そんな…」
途惑う和希の側に来ると中嶋は和希の顎をソッとあげた。
「綺麗な瞳をしているな。この目に何もうつらないとは信じられないな。」
「…っ…」
和希は見えない目で中嶋の方をじっと見つめていた。
あの事故は和希から足の自由を奪っただけでなく、視力も奪ってしまった。
事故から目覚めた和希は暗闇の世界にいた。
人から裏切られた事がなかった和希。
愛人の子供でも優しく接してくれた実の父の妻や義妹、そしてその婚約者。
彼らから与えられていた優しさが全て偽物だと知った時、和希の顔から笑顔が消えた。
これから何を信じて生きていけばいいのだろう?
歩けなくなった足。
見えない目。
もう1人では生きてはいけない。
もう誰も信じられない。
その時脳裏に浮かんだのは中嶋の顔。
和希を力ずくでモノにした人物。
ずっとそう思っていた。
けれども、暗闇の世界で思い出すのは中嶋の分かりづらい優しさ。
その優しさの1つ1つが和希の心を暖かくしてくれた。
ただでさえ会えないと思っているのに、こんな身体になってしまってはもう2度と会う事も叶わない。
それでも…
想う事だけなら許されるのではないのだろうか?
思い出は山の様にある。
それだけを大事にしてこれからの人生を生きていきたい…
和希はそう思いながら、石塚と共にこの地にやって来た。
そんな和希に石塚は献身な態度で接してくれた。
最初、それに気付かなかった和希。
でも、通いの家政婦の向坂がある日不思議に思って和希に尋ねたのだった。
「和希様はどうしていつもそんな風にしか笑わないのですか?」
「えっ?」
「和希様の笑顔は作り物です。どうして心から笑わないのですか?」
「それは…」
和希は困ってしまった。
今の和希は人を信じられない。
人から受ける好意ももしかしたら裏があるかもしれないと疑ってしか取れなくなっていた。
だから、向坂のこの言葉も何か他に言いたい事があるのではないだろうかと思ってしまった。
俯いた和希の耳に向坂のため息が聞こえた。
「和希様、私は和希様を困らせたくて言ったのではありません。いつも辛そうにしている和希様を見るのが切ないんです。」
「向坂さん…」
「和希様がどうしてここに来たのかは石塚さんんから聞きました。そして石塚さんから『和希様は身体だけではなく、心にも深い傷を負っていますので、気を付けて接して下さい』と頼まれました。」
「石塚さんが?そんな事を言っていたの?」
「はい。」
驚いて顔色を少しだけ変えた和希を見て向坂は安心した顔をした。
まだ、和希には元の心を取り戻す力があるのだと気付いたからだ。
「和希様、世の中には色んな方がいて当たり前なんです。中には自分の利益の為に人をいくら傷つけても何とも思わない人もいます。それを見極めるのはとても難しいと思います。和希様はまだお若いんです。1度や2度人に裏切られたと言って、一々傷ついていてはこれから先の人生がつまらない物になってしまいますよ。」
「…」
向坂は笑って答えた。
「私も偉そうな事を言いましたが、実は裏切られてここに逃げてきたんです。」
「えっ?」
「ここはいい所ですよ。疲れた心と身体を癒してくれました。今ではここに私を寄越してくれた鈴菱社長に感謝しています。」
「ここに来たのは鈴菱社長…父に言われたからなんですか?」
「はい。私はかつて鈴菱の社員だったんです。と言っても10年以上も前の話ですが。」
「そうだったんですか…」
「和希様、和希様は石塚さんという素晴らしい執事と一緒にここに来られました。急がなくても構いません。少しづつでいいんです。頑なな心を解して下さいね。そうしたら、今まで見えなかった物がたくさん見えてきます。」
「ありがとうございます。」
和希は微笑んで言った。
その笑顔はほんの少しだが、心からの微笑みが戻ってきていた。
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