どんな微笑よりも…7

やかんに水を入れ火にかけると、和希の目から涙が零れ落ちてきた。
その涙を和希は慌てて拭う。
こんな所を紘司にいさんに見つかったら大変な事になるからだ。
本当は怖かった、行くなんて言いたくもなかった。
けれども、自分が行かなければ困る事になるのは解りきっていたから…
和希は震える身体をギュッと抱き締める。
そして囁いた…怖くはないと…
大好きな紘司にいさん、柾司、そして両親の役にたてるならこれ以上いい事はないじゃないか。
教会に捨てられていた自分を大切に慈しんで育ててくれた恩を返す時がきただけなのだから。


やかんの水が沸騰したので和希は火を止め、紅茶の支度をする。
ふと、思い出す昔の出来事…
『いいかい、和希。紅茶はこうやって入れるんだよ。』
『どうして高い位置からお湯をいれるの?お湯が飛び散ったら火傷しちゃうよ?』
『茶葉をしっかり開かせないと美味しくないんだよ。』
『えっ?こんな乾燥した葉っぱが開くの?』
『ああ。だから美味しくなるんだよ。後は蒸らし時間だ。種類によって3〜5分掛かるんだよ。美味しく入れると、香りがよく味わい深い紅茶になるからね。』
『そうなんだ。僕も頑張ってお父さんのように上手に入れられるようにするね。』
『そうか。それじゃ、父さんは和希が美味しいお茶を入れてくれる日を楽しみに待ってるからな。』
『うん!』
嬉しそうな顔で頷く和希を篠原の父は優しく和希の頭を撫でてくれた。
和希は幼い頃、篠宮の父から教わった紅茶の入れ方で紅茶を入れた。
紅茶好きな篠宮の父は珍しい紅茶を偶に手に入れては皆に飲ませてくれた。
篠宮の父の入れる紅茶は美味しくて和希は大好きだった。
篠宮の父が紅茶の用意を始めると側にくっついてジッとその様子を見ていた。
そんな和希に篠宮の父は『飽きないのか?』とよく聞いてきたのを和希は覚えている。
昔を思い出し、和希はクスッと笑った。
あの頃はこんな事が起きるだなんて想像すらしていなかった。
でも…
これからどんな惨い目にあっても和希は絶えられると思った。
なぜなら、和希にはたくさんの素敵な思い出があるからだ。
その思いだけで、どんな苦しさも我慢できる…
和希はそう確信していた。


紅茶を入れた和希はお盆に載せると外にいるであろう篠宮の元に向った。
和希の思った通り、篠宮は先程の場所にジッと立っていた。
「紘司にいさん、紅茶が入ったので一緒に飲みませんか?」
和希は外に備え付けてあるテーブルの上にお盆を置くと、カップに紅茶を注いだ。
「紘司にいさん、冷めないうちに飲んで下さいね。」
和希の声に我に返った篠宮は和希の腕を掴んで、
「和希。取り立ての人が来たら俺が断るからな。」
「紘司にいさん?何を言ってるんですか?」
「何を冷静に言っているんだ。和希は遊郭がどういうところか解ってるのか?」
「はい。解ってますよ。その…体を売る所でしょ?」
「解ってるならどうしてそんなに冷静にしていられるんだ!」
怒鳴る篠宮に和希は困った顔をして、
「だって…それが1番いいと思ったんです。」
「1番いいだと?」
「皆が幸せになる1番の方法なんですよ。俺頑張って稼いでここに必ず戻ってきますからね。」
和希はニコッと笑った後、
「あっ…でももう戻れないかな?汚れた俺じゃ教会は受け入れてくれないから。」
笑いながらそう言う和希が篠宮には不憫に映った。
和希を辛い目にはあわせたくはなかった。
けれどもこのままではどうにもならないのが現実だった。


篠宮は和希をギュッと抱き締めた。
驚いて和希は硬直してしまう。
「和希、許してくれ。和希1人を辛い目には合わせない。もしも和希が戻ってきた時、教会が和希を拒否するなら俺が和希の側にいる。」
「紘司にいさん?」
「だから…和希が帰ってくる場所は俺のところだから、それだけは何があっても忘れるな。いいな?」
和希の目から堪えきれない涙が零れ落ちた。
「ありがとう、紘司にいさん。俺…どんなに辛い事があっても頑張るから…今の紘司にいさんの言葉を支えに一生懸命やってくるからね。」
「ああ。待ってる。俺がここで和希の帰りを待っているのをけして忘れるんじゃないぞ。」
「…はい…」
和希はそっと篠宮の身体から離れた。
もうすぐ約束の1時間が経つ。
そうしたら俺は遊郭に売られていく。
けれども、今の紘司にいさんの言葉を支えにしていればきっとどんな辛い目にあっても頑張れる。
和希はそう思い、篠宮にむけて最高の笑顔を見せた。


「篠宮。」
そんな2人に声が掛かった。
その声の主はこれからの和希の人生と大きく変える人物の声だった。




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