未来への扉 2

あれから5年の歳月が流れた。
和希は5歳になり、可愛い盛りを迎えていた。
しかし、久我沼の家庭は崩壊していた。
元々身体の弱かった鈴香は和希を生んで以来、寝たり起きたりの生活を送っていた。
久我沼はそんな鈴香を顧みようともせずに、好き勝手に暮らしていた。
和希は鈴香を一生懸命に支えていた。
その献身ぶりは5歳児にしては素晴らしい物だった。
たかが5歳児の子のする事だからたいした事は出来て無いのだが、和希なりに掃除や洗濯、買い物に食事の手伝い、後かたづけなど“小さなお母さん”として精一杯頑張って毎日を過ごしていた。

“ガチャ”
玄関の扉が開き、バタバタと走る音。
勢いよく襖が開き、息を切った和希が入ってくると鈴香の側に座る。
「ただいま、お母様。」
「おかえりなさい、和希。ご苦労様。」
布団から身体を起こすと鈴香は和希の頭を優しく撫でると、和希は嬉しそうに笑う。
「お母様、お豆腐と納豆買って来ました。」
「ありがとう。和希のお陰で助かるわ。」
「本当ですか?お母様。あっ、お財布はこの引き出しに入れておきます。それからお豆腐と納豆は台所に置いておきますね。」
「台所に置いたら、遊びに行ってらっしゃい。」
「でも…」
和希は心配そうな顔で鈴香を見る。
鈴香はニコッと笑うと、
「買い物から帰って来る途中に啓太君に会ったでしょう。」
「えっ?どうしてお母様が知ってるんですか?」
鈴香は窓の方を指さす。
「さっき、元気な声が聞こえてきましたよ。今日は気分もいいから私は大丈夫よ。だから啓太君と遊んでらっしゃい。」
「はい!行っています、お母様。」
破顔をした和希は買い物した物を台所に置くと、帰って来た時と同じ様にバタバタと走り外へと行く。
窓から聞こえて来る和希の嬉しそうな声に鈴香は微笑む。
「啓太!」
「あっ和希!どうしたの?」
「遊んできてもいいって、お母様が言ってくれたんだ。」
「本当?やったー!!」
「何する?啓太。」
「そうだな…」
近所に住む伊藤啓太は5月生まれで和希と同じ歳である。
啓太と和希は兄弟の様に仲良がよかった。
病弱な鈴香の事を知り、啓太の母と父は啓太と同じ様に和希を可愛がり、和希も啓太の母と父にとても懐いていた。
家族を顧みない久我沼であったが、和希の周りには彼を優しく包み込んでくれる沢山の人がいるお陰で和希は明るく真っ直ぐに育っていた。
和希が生まれてから5年。
久我沼はあいからわず、子会社の専務をしていた。
それが、面白くないのは明らかで、それは仕事面でも影響を及ぼしていた。
久我沼の実力を認めない鈴菱の恨みは妻と子に移った。
さすがに鈴香には罵声で済んだが、和希へはそれでは済まなかった。
久我沼の子にはなっているが、本当は入れ替わった子…恨んでも恨みきれない鈴菱の子である。
仕事への不満、病弱な鈴香への苛立ち、そしてそんな鈴香に対して何もしてくれない鈴菱への不満。
それら全ての苛立ちは和希にむかっていた。
久我沼の家は鈴菱のしかも本家とは違う。
大勢の使用人を抱えている鈴菱の本家とは違い、使用人一人を雇う事すら出来ない。
当然家の事は鈴香が一人で切り盛りしていた。
だが、その鈴香が寝たり起きたりの生活をしているので、どうしても家の事が疎かになってしまう事が多い。
久我沼はそれが気に入らなかった。
今の久我沼には鈴香を手助けする気など毛頭なかった。
そればかりか、何の為に華族の娘と結婚したんだろうかと後悔までしていた。
折角鈴菱の一族に入れたのに、今の久我沼には何のメリットもなかった。
そればかりか、仕事も家庭も上手くいかない…これが今の久我沼の現実だった。


“ガチャ”
玄関のドアを開け久我沼が家へ入ると、奥から和希がバタバタと走ってきた。
「お帰りなさい、お父様。」
茶色の髪を揺らしながら、嬉しそうに和希は言う。
そんな和希を見ようともせずに久我沼は言う。
「鈴香は何をしているんだ?」
久我沼の問いに和希は暗い顔をした。
「お母様は今寝てます。今日は具合があまり良くないみたいなんです。」
「まったく、仕方のない奴だ。」
久我沼はため息を吐くと、鈴香のいる部屋へと向かう。
その後を和希は黙って付いて行く。
いつも和希を見ようとしない久我沼。
それは自分が良い子ではないからだと和希は思っていた。
もっと頑張って母の手伝いをすれば、父の言いつけを守れば、きっと父は自分を見てくれる、そして自分に微笑んでくれる…和希はそう思い、そう信じて努力してきた。
いくら努力しても無駄だとは知らずに。
その日を信じて頑張っていた。
久我沼は襖を開け、鈴香の側へ行く。
鈴香は布団から身を起こすと、
「あなた、お帰りなさい。」
「俺が外で苦労して働いてきているのに、お前は何もせずに一日寝ていたのか?さすが華族のご令嬢だ。」
「…あなた…」
「食事はどうした?」
「ごめんなさい。これから直ぐに仕度します。」
“バンッ”
起き上がろうとした鈴香の側に久我沼は持っていた鞄を投げ付けた。
ビクッとする鈴香。
「ふざけるな!俺は一日中働いてきてクタクタなんだ。なのに、飯は無し、風呂も沸いてないだと?貴様、何様のつもりだ!」
和希は久我沼の前に立つと、久我沼に向かって、
「ごめんなさい、お父様。僕が悪いんです。お風呂は直ぐに沸かします。ご飯は炊けてるので、お豆腐と納豆を今用意しますからもう少しだけ待ってて下さい。」
“バシッ”
音と共に和希は畳の上に倒れ込んだ。
久我沼が和希の頬を叩いたのだ。
「あなた!」
鈴香は立ち上がると和希を抱き抱える。
強く叩かれた和希の頬は赤く腫れていた。
「あなた、和希に何をするんですか?止めて下さい。」
そんな鈴香の態度に久我沼は苛立ちを感じる。
「うるさい!そもそもお前の躾がなってないから、父親に向かってこんな口をきく子になったんだぞ!」
そう言うと和希を鈴香から引き離すと、和希の事を足で蹴り始めた。
痛みの中で和希は言葉を紡ぐ。
「ご…ごめん…な…さい…」
暫くして気の済んだ久我沼は和希を蹴るのを止め、
「外で食べてくる。風呂だけは沸かしておけよ。」
それだけ言うと家を出て行った。
鈴香は和希を強く抱き締める。
そんな鈴香に和希は笑い返す。
痛くて溜まらないはずなのに、母に心配を掛けさせまいとする和希の精一杯の思いだった。
久我沼がああなったら、もう誰にも止められなかった。
何か一つでも気に入らない事があると、必ず和希に手や足を出す久我沼だった。
だから、和希の身体には新旧の痣が幾つもあった。
まだたった5歳なのに、和希の身体には痣が残らない日はなかった。
信じがたい事実だが、和希にとってはこれが日常茶飯事の事だった。
それでも和希は久我沼を父を恨む事はしなかった。
そのいじらしい程の献身な姿に鈴香は何度も助けられた。
鈴香の目から涙が溢れてくる。
それに気付いた和希は、
「お母様、泣かないで下さい。お願いです。」
そう言う和希を鈴香はギュッと抱き締める。
「ごめんなさいね、和希。お母様のせいで。」
「お母様?僕なら平気です。大丈夫だよ。だって僕は男の子だもの。僕がお母様を守ってあげるよ。だから、もう泣かなくてもいいんだよ。安心していいんだよ。」
笑顔で言う和希。
痛みが走る身体を押さえつけて和希は立ち上がると、
「夕ご飯ここに持ってきますね。ご飯と豆腐と納豆だけだけど、お母様それでいい?」
心配そうに尋ねる和希に鈴香は微笑む。
「ありがとう、和希。ごちそうだわ。」
嬉しそうに和希は笑う。
「すぐに持ってきます。あっ、その前にお風呂を沸かしてきます。いつお父様が帰って来てもいいようにしとかなくっちゃ。」
そう言って部屋を出て行く和希。
そんな和希を見て鈴香は涙をまた一つ零す。
「ごめんなさいね、和希。貴方にこんな辛い思いばかりさせてしまって。でも、私はあの人を信じているの。今は辛い事が多いから荒れているだけだって。いつかきっと、出会った頃の様に優しいあの人に戻ってくれると信じているの。だから和希、貴方ももう少し辛抱して。お願いよ。」


「お母様、もう出かけられますか?」
待ちきれずに和希は鈴香の部屋の襖を開く。
「終わったわよ。和希ったら、そんなに急かさなくても今行きますよ。」
そう言いながら、和希の服を少し直す。
和希はちょっとバツが悪そうに笑う。
「だって、早くおじい様に会いたいんだもの。」
「和希は本当におじい様が好きなのね。」
「うん!大好き!!」
破顔で言う和希。
父の温もりを知らずに育った和希にとって、祖父鈴菱鈴吉は和希に温もりを与えてくれた。
それが祖父としての温もりであったとしても、和希にはとても大切な物であった。
そんな和希を鈴香は優しく見つめながら、和希の頭を撫でる。

仕事に対して不満ばかり言い、態度の悪い久我沼に対し、見切りをつけた鈴吉は娘に久我沼と別れ和希と共に鈴菱に帰ってくる様に伝えた。
しかし、それを鈴香は頑として拒んだ。
「あの人は今、自分を見失っているだけです。今にきっと立ち直ります。私は和希と一緒にその日を待ちます。」
そう言って鈴吉の言葉を聞かない鈴香に折れたのは、鈴吉の方だった。
その代わり、月に1度顔を見せに来ること…それが条件だった。
自分に何もしてくれない鈴菱を久我沼は嫌っていた。
だから、鈴香や和希が鈴菱から何かをして貰うのを極端に嫌がった。
だが、この月に1度の顔見せは別だった。
毎月第一土曜日のお昼から夜までの時間に会う事については、久我沼には何も言わせなかった。
仕方なく、その日だけは久我沼は我慢していた。

“コンコン”
鈴菱本社ビルの最上階にある社長室のドアをノックすると、中から声が掛かる。
「どうぞ。」
鈴香がドアを開くと、待ちかねた様に和希が中に入る。
「和希。」
「おじい様!」
和希は鈴吉の方へパタパタと走って行く。
そんな和希を鈴吉は抱き上げる。
「元気だったか?」
「はい!おじい様はご機嫌いかがですか?」
和希の“ご機嫌いかがですか?”に思わず笑った鈴吉に、和希は不思議そうな顔をする。
「どうして笑うんですか?おじい様。」
「いや、和希も大きくなったなと思ってな。」
「お母様のご飯を僕沢山食べてるから大きくなったんだよ。おじい様、僕重くなった?」
「そうだな。」
「もう抱っこをするのは大変ですか?」
寂しそうな顔をして言う和希の頬に鈴吉は頬ずりする。
「やっ、おじい様。くすぐったい。」
鈴吉の腕の中で和希は少し暴れる。
「はは…大丈夫だ。和希はまだまだ軽いからな。いくらでも抱き上げるぞ。」
「本当に?」
嬉しそうに笑う和希。
「さぁ、お腹が空いたろう?何が食べたい?」
「ハンバーグ!!」
「和希はハンバーグが好きだな。だが、偶には他の物を食べてみないか?」
「う〜ん…」
和希は一生懸命考える。
「どうしても他の食べ物じゃなきゃ駄目?」
「いや、それでは和希の好きなハンバーグを食べに行くか?」
「はい、おじい様。」
和希は破顔する。
そんな和希を鈴吉は優しく見つめる。
けして裕福と言えない生活。
病弱で寝たり起きたりの生活をしている母親。
家庭を顧みない父親。
そんな中で素直に明るく優しく育っている和希。
幸せにしてやりたいと思う。
娘の大切な一人息子なのだから。
できるなら鈴菱に引き取って息子の子と一緒にきちんとした教育を受けさせてやりたい。
けれども、和希の両親が反対するのでそれは叶わない。
ならば、月に1度のこの時間を大切にしようと鈴吉は思っている。
「そうだ、和希本を持ってきたぞ。」
「本当ですか?おじい様。」
鈴吉から本を受け取る和希。
5歳児に渡すにしては少し難しそうなその本も和希には平気だった。
すでに、ひらがな、かたかなは全て読めて、簡単な漢字なら大抵は読めるので、和希は絵本ではなく、児童書を好んだ。
この時代、今和希が手にしている様な本は高価で一般庶民にはまだ手に入りにくいので、月に1回のこの時に鈴吉は必ず1冊本を和希に手渡していた。
嬉しそうに本を見る和希。
「和希、おじい様にお礼は言わないの?」
鈴香の言葉にハッとして、和希は慌てて、
「ありがとうございます。おじい様。」
ペコッと頭を下げる、
その仕草が可愛らしくて鈴吉は和希の頭を撫でる。
笑い返す和希。
「鈴香、身体の調子はどうなんだ?」
鈴吉は鈴香に声を掛ける。
「お陰様でだいぶいいです。松岡先生に定期的にみて頂いてますもの。ありがとうございます。」
確かに今日は顔色がいい。
久我沼の元では、ろくに医者にもかかれない事を知っているので、鈴菱家の主治医である松岡迅を週に一度通わせ、鈴香の治療をして貰っているのである。
松岡の話では、年々悪くはなっているが、まだこうして出歩ける体力はある様だ。
「そうか。だがあまり無理はするなよ。お前に何かがあったら、和希が困るのだからな。」
「はい。」
「それでは、食べに行くか。和希、ハンバーグだな。」
「はい!ハンバーグがいいです!」
本を大事そうに抱える和希の手を鈴吉は引きながら、社長室を後にした。

食事を終え、デザートのアイスクリームを美味しそうに食べている和希を見ながら。鈴吉は鈴香に聞いた。
「七五三は本当にこちらではしないのか?」
「はい、お父様。」
「しかし、孫の祝いなんだぞ。こちらで祝ってもなんの問題もなかろう?」
「でも…」
鈴香は言葉を濁す。
「おじい様。」
普段はけして大人の会話の途中で口を挟まない和希が、珍しく声を掛けてきた。
「何だ?和希。」
「あのね、七五三は啓太と一緒にするんです。だからおじい様のお家には行けないんです。ごめんなさい。」
「啓太君と?」
「はい。啓太と約束したんです。啓太と一緒に家の近くの神社へ行くって。」
「そうか。」
残念そうに鈴吉は言った。
近所に住む伊藤家とは懇意な間柄である。
鈴吉も娘と和希の事のお礼とお願いに何回か会った事がある。
伊藤啓太も両親のとても素晴らしい人達で鈴吉は一度で気に入っている。
その伊藤啓太と一緒に七五三をすると和希が言う以上、鈴吉には止めようがなかった。
「おじい様、怒ってます?」
心配そうな顔をした和希に鈴吉は微笑むと、
「いや、約束があるなら仕方ないだろう。後で和希と啓太君にお祝いを届けよう。」
「本当?啓太の分もいいの?」
「もちろんだとも。和希の大切な友達なんだろう。さぁ、安心してアイスクリームを食べなさい。少し溶けてきたぞ。」
「あっ、はい。」
安心した顔で食べ始める和希。
「すみません、お父様。」
申し訳なさそうに言う鈴香に鈴吉は言った。
「気にするな。」


〜お詫び〜
この時代七五三は数えですると思いますので、本当なら和希が4歳の時にお祝いをしていると思います。
こちらの都合で5歳で七五三をする設定にしてしまいました。




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