未来への扉 3
穏やかな日々は長くは続かない。
殆ど寝たきりになった鈴香の生活。
何度も鈴菱に戻れと言う鈴吉の言葉を断り続けてどれくらいの時が経ったのだろうか?
和希は10歳になっていた。
学校での成績は常にトップ。
だが、母の事が気になる和希は滅多に学校へは行かずに家にいた。
この頃の和希はもう一通りの家事はできていた。
「お母様、夕食ですけれども、食べられますか?」
和希は夕食を持って鈴香の部屋へ入って来る。
「和希。」
身を起こす鈴香を和希は手伝い、鈴香の肩にショールを掛ける。
「お母様、今日は顔色いつもよりいいですよ。お粥ですけど、食べられますか?」
「ええ、頂くわ、和希。」
和希は茶碗にお粥をよそる。
「昨日迅先生が見えられた時に卵を沢山持って来て下さったんです。だから今日はいつもより多く卵を入れて作ったんですよ。」
茶碗の中のお粥は卵が入っているので綺麗な黄色の色をしている。
鈴香が口に含むとホワッと口の中に甘さが広がる。
「美味しい。」
和希は破顔する。
「よかった。お母様に美味しいって言って貰えて。」
「和希は本当に料理を作るのが上手くなったわね。きちんとダシも取れてるし。」
「本当ですか?嬉しいな。」
二人一緒に食べる夕食。
最近は久我沼が家に帰るのは月に数回だった。
何処で、何をして過ごしているのかは聞いていない。
ただ、帰って来るとあいからわず鈴香には罵声をあびさせ、和希には暴力をふるうので、和希としては母と二人きりの生活の方が好きだった。
もう父には何も期待はしていなかった。
自分はいい、我慢さえすればいいのだから。
ただ…父の優しさを信じている母には優しくして欲しかった。
“ガチャ”
その時玄関の扉が開く音がした。
「誰かしら?」
「きっとお父様ですよ。」
そう言うと和希は立って玄関に向かう。
玄関にいたのはやはり久我沼だった。
「お父様、おかえりなさい。」
久我沼の鞄を受け取りながら和希は言う。
かなり飲んできたのであろう…久我沼の顔は赤く、息は酒臭かった。
何も言わずに和希に鞄を渡し、鈴香の部屋に向かう久我沼の後を和希も無言でついて行く。
部屋に入るなり、
「お前は何様のつもりだ?いつも亭主が帰ってきても出迎えにすら来ないで、いい加減にしたらどうだ!!」
「申し訳ありません。」
謝る鈴香を無視し、久我沼はそこに置いてあるお粥が入っている鍋を蹴る。
畳に零れるお粥。
「お父様、やめて下さい。」
そう言う和希に向かって側にあった水が入っているコップを和希に投げつける久我沼。
和希の額に当たったコップはパリッと音をたてて割れ、和希の額からは血が流れ出した。
「和希!」
しゃがみ込んだ和希の額の様子を見た鈴香はその傷の深さに驚く。
「あなた、いくらなんでもこれは酷すぎです。」
鈴香の初めての口答えにカッとなった久我沼は初めて鈴香に手をあげた。
身体の弱った鈴香にとってその一撃は身体にも心にもこたえた。
よろけた鈴香はタンスに強く頭をぶつける。
「お母様!」
「まったく、どいつもこいつも気にいらん。」
鈴香の側に行った和希に久我沼は冷たく言い捨てると、家を出て行った。
「お母様、大丈夫ですか?今迅先生に電話をしてきますからちょっとだけ待ってて下さいね。」
ぐったりしている鈴香に声をかけてから、電話をかけ、鈴香の側に和希は戻ってきた。
「お母様、迅先生はすぐに来てくださるそうですよ。もう少し待っててくださいね。」
「ありがとう、和希。でも松岡先生には和希がまず診て貰いなさい。それよりも、お母様の話を聞いて欲しいの。」
「お母様?」
「お母様はもう駄目だから…」
「何言ってるんですか?」
「和希、お願い。お母様の最後のお願いを聞いてちょうだい。」
「最後って…なんでそんな事言うんですか?」
「お父様をお願いします。」
「お母様?」
「あの人は、和希のお父様は本当はとても優しい人なのよ。でも今あの人は、苦しんでいるのよ。運がないせいで。きっともうすぐあの人にも運が向いて来るはずだから、その日まで私の代わりにあの人を支えて欲しいの。今度は和希貴方があの人を支えてあげて。」
「……」
「お願い、和希。和希がどんなに酷い目にあっているかは解っているの。でも、こんな事は和希にしか頼めないの。私はあの人を一人にしては行けないの。お願い和希、私の代わりにあの人の側にいてあの人を支えてあげて…」
「解りましたから、お母様。もう少しで迅先生が来ますから、そうしたらすぐに元気になれますよ。」
鈴香の手をぎゅうと握る和希に、鈴香は首を振る。
「もう私の事はいいから。松岡先生には和希の怪我を診て貰いなさい。」
「お母様の方が先ですよ。」
ニコッと笑う和希に鈴香も微笑む。
「和希は本当に優しい子に育ったのね。もう、私がいなくても大丈夫ね。」
「お母様?」
「ごめんなさい。和希の側にずっといられなくて。でも大丈夫よね、和希は強い子だから。」
和希の頬を撫でながら鈴香は言う。
「泣かないで和希。お母様は信じてます、貴方の強さを…」
そこまで言うと意識を手放す鈴香。
「お母様!!」
和希の叫び声が家中に響きわたった。
その後、急いで来た松岡は唖然とした。
散乱している部屋、倒れている鈴香、その側には額から血を流している和希が放心状態で座っていた。
「和希君、これはいったいどうしたんだ?」
しかし、和希は何も答えない。
松岡はまず和希の血を拭き取り、傷の具合を確認した。
それから鈴香の手首に触れ、脈を確かめるがそれは触れる事はなかった。
「和希君、電話を借りるよ。」
そう言うと松岡は電話をかけてから、和希の傷の手当てを仕始めた。
ガラスによって切られたその傷は思ったより深く、傷が残る事が想像できた。
松岡は和希の手当を済ますと、鈴香を布団に寝かせ、手を組ませると、部屋を片付け始めた。
そんな様子を和希はただ眺めているだけだった。
鈴香の葬儀の日は、雨が降りそうな天気だった。
本来なら自宅での葬儀なのだが、久我沼に嫁いだとはいえ鈴菱の本家の娘である為訪れる人も多いために、お寺で行われた。
昨日から傷のせいか、ショックのせいか、和希は一言も喋らなかった。
目も虚ろで、呆然としている和希を啓太も啓太の両親も心配してできるだけ和希の側にいてくれたが、さすがに葬儀の時は遺族席にいる和希の側にはいなかった。
涙も流さずただボウ〜と座っている和希に鈴吉らは何度も席を外す様に言ったが、ただ首を横に振るだけだった。
火葬場で火葬を待っている間、和希は控え室にはいずに啓太と共に庭にいて、煙突から立ち上る煙を見ていた。
いつも明るい和希がこうなってしまってどう接していいか解らなくなった啓太は、ただ側に立っているだけだった。
それでも、和希を一人にはさせられなかった。
今和希を一人にしたらきっと後悔する…啓太は本能でそう感じていた。
「こんな所にいたのかい?和希君、啓太君。」
「松岡先生。」
「啓太君、和希君の側にずっといてくれたのかい?ありがとう。」
「そんな…俺は側にいただけで何もしてないんですよ。」
「今の和希君にはそうしてくれる人が必要なんだよ。本当にありがとう。凄く助かったよ。」
松岡はそう言いいながら啓太の頭を撫でると啓太は嬉しそうに微笑んだ。
「和希君、おじい様が君を呼んでいるんだ。一緒に来てくれるかい?」
コクンと頷く和希。
そんな和希の肩を抱きしめて、
「それじゃ、行こうか?啓太君も一緒に行こう。中でご両親が待っているよ。」
「はい。」
元気な返事をする啓太と共に建物の中に3人は入って行った。
そんな3人を庭で父を待っていた少年が見ていた。
「おう、哲也。待たせたな。さぁ帰るぞ。」
「親父、遅い!待ちくたびれたぞ。」
「仕事だ。仕方ないだろう?」
「腹減った!」
「解った、解った。何か上手い物でも食って帰るか?」
「やった!!俺肉が食べたい!!」
「ああ、解った。哲也の好きな物を食べるか。」
飛びつく少年をその父親の丹羽竜也は優しく受け入れる。
少年の名前は丹羽哲也、12歳。
哲也はこれからの自分の人生を左右する少年和希との初めての出会いをした。
だが、この時和希は哲也の存在にすら気付かず、また哲也も和希の存在など気にも留めなかった。
松岡に連れられた啓太は別の控え室で待っている両親の元へ帰って行った。
一方和希はある控え室へと連れて行かれた。
“コンコン”
「松岡です。和希君を連れて来ました。」
松岡がノックをすると、中から声が掛かる。
「入りたまえ。」
中に入ると、鈴吉とその息子の鈴菱、久我沼がいた。
「ご苦労だったな、松岡。申し訳ないが君もここにいて話を聞いてもらえないか?」
鈴吉の言葉に松岡は少し躊躇する。
「よろしいんですか?私は部外者ですが。」
「ああ、構わない。」
そう言うと、鈴吉は和希の側に行くと優しく微笑む。
「和希。これから話ことはとても大切な事だから、よく考えてから答えるんだよ。」
和希は頷く。
「これからの和希の生活の事だ。このまま久我沼とつまりお父さんと一緒に暮らしていくか、鈴菱の家に来て生活するか和希に決めて欲しいんだ。」
和希はじっと鈴吉を見詰めている。
「母親がいなくなった今、仕事が忙しい父親と二人でいるよりも鈴菱に来て暮らす方が和希にとっては良いと思ってるんだ。」
「そうだよ和希君。家の事を心配しなくてすむし、小学生らしい生活ができるんだよ。それにウチには和希君と同じ年の息子もいるんだ。きっといい友達になれると思うよ。」
黙って鈴吉と鈴菱の話を聞いていた和希だったが、久我沼の方を向くと数日ぶりに口を開いた。
「お父様は?」
和希は久我沼を見て言葉を続ける。
「お父様もおじい様やおじ様と同じ考えなの?お父様はどうしたいの?僕とはもう一緒にいたくないの?」
不安そうに聞く和希に久我沼はほくそ笑む。
「何を言うんだ、和希。大切なお前を、鈴香の忘れ形見を誰が好んで手放したいと思うものか。だが、私といれば家事などやらなければならない事が沢山ある。本当にお前を思うんなら私といるよりも鈴菱で暮らす方が良いに決まってるじゃないか。」
口では何とでも言える…久我沼はそう思っている。
それよりも今和希を手放せば何のために入れ替えたか解らなくなってしまう。
憎んでも憎みきれない鈴菱の子をここで幸せにする訳にはいかないと思っている。
復讐はまだ始まったばかりなのだから。
もっと鈴菱の子を苦しめてぼろぼろにしてから、本当の事を鈴菱に知らせて、本当の自分の子の不幸を見せてやりたい、本当の子と信じて愛情を注いだ子が実は我が子ではなく他人のしかも俺の子と知った時の鈴菱のショックな顔を見てみたい…そう久我沼は願っていた。
そんな久我沼の考えなど知らないの和希は久我沼の言葉を大切に胸にとめる。
母の言っていた言葉が蘇る。
『あの人は本当は優しい人なの。』
そうかもしれない…和希はそう思った。
母が病に倒れ、寝たきりな生活…それが父には辛かったに違いない。
だから心にも無い事を言ったりしたりしてしまったんではないだろうか?
母にはそれが解っていたからどんな事をされても父のする事を許す事ができたのではないだろうか?
それなら自分も父を信じてみようか?
もう1度だけ母の言葉を信じて、父を信じてみたい…和希はそう思い始めていた。
和希は顔を上げてハッキリと言った。
「僕は久我沼和希です。お父様と一緒にこれからも暮らしていきます。」
「和希。」
「和希君。」
申し訳なさそうに和希は鈴吉と鈴菱を見ながら言うが、その瞳には強い輝きがあった。
「ごめんなさい。おじい様、おじ様。でも僕はこれからもお父様と一緒にいたいんです。お母様と約束したんです。」
「約束?」
「はい。お母様の代わりにこれからは僕がお父様の側にいるって。だから僕はこれからもお父様と一緒に暮らします。それがお母様との最後の約束だから。その約束を僕は守りたいんです。」
「そうか…」
鈴吉は一言だけそう言った。
あの娘の子だ、何を言ってもこうと決めたらけしてその考えを変える事は無理だろう。
なら、今できる一番いい方法を考えればいい。
「和希がそこまで言うのなら、仕方あるまい。ただ、男親1人のだと何かと心配だから今まで月1度会っていたのを、月2回にする。それでいいな久我沼。」
「勿論です。」
久我沼はほくそ笑む。
これで良いと、すべて久我沼の思い通りに動いていると、密かに喜びを噛み締めていた。
何も知らない和希。
これから今まで以上の苦しさや辛さが待っている事など何も知らない。
今の和希は父からかけて貰った偽りの優しい言葉を胸に抱いて母のいないこれからの生活を今まで以上に大切にしていこうと、母の分まで父に尽くして生きて行こうと心に誓っていた。
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