未来への扉 6
病院の白いベットに眠る和希の手を鈴吉はギュッと握っていた。
点滴のせいか和希の顔色はだいぶ良くなっていた。
そんな和希の髪を撫でながら鈴吉は深く後悔していた。
自分はこの2年間和希のどこを見てきたのだろうかと。
この2年間、月に2回も会っていながら和希の苦しみや辛さに気付いてやれなかった。
いや…気付こうと思えば気付けなかった訳ではなかった。
和希は夏でも長袖を着ていた。
時々足を引き摺っていたり、身体の打ち身を庇う様な仕草をしていた。
でも、いくら鈴吉が聞いても、少しふざけてぶつけただの、体育の授業で怪我しただけだと和希は言い張った。
そして、何よりも和希はいつも笑って『毎日楽しく過ごしている。』と言っていた。
だからその言葉を信じた。
12歳の和希がどんな思いで今の生活を隠そうとしていたかなんて、誰にも想像できなかった。
和希が手首を切った日…それは本当に偶然と言うにはあまりにもよくできていた。
その日は鈴香の月命日だった。
そして、和希が手首を切った少し後に鈴菱家の主治医の松岡迅がいつもの様に久我沼家を訪れたのだった。
鍵の掛かってない玄関のドア。
不審に思いながら松岡は居間へと足を運ぶと、その場の光景に唖然とした。
脱ぎ捨てられた和希の制服、そして畳に残る白い飛沫と血の跡。
「和希君、どこにいるんだ?」
ここで何が起こったか瞬時に理解できた松岡は、和希を探し始め、台所で血を流し真っ青な顔で倒れ込んでいる和希を見つけた。
「和希君!!」
松岡は叫んで和希の側に行くが、既に和希の意識は無かった。
松岡は急いで右手の脈を診る。
弱々しいがまだ脈はうっている。
松岡は自分のネクタイを外すと和希の左手首近くをギュッときつく縛ると、部屋から毛布を持ってきて和希の身体を包み込み、その腕に抱き上げる。
そして先程電話をして来て貰った鈴菱の車に和希と共に乗り込むと急いで病院へと向かった。
発見が早かったお陰で、和希の一命は救われた。
だが、それと同時に解ってしまった事実。
和希が必死に隠し通していた久我沼からの虐待、そして今回の強姦事件が明らかになった。
和希が入院した夜、病院の応接室には和希の容態を伝える為に、松岡と鈴吉、鈴吉の息子の鈴菱、そして丹羽竜也がいた。
鈴菱と竜也は高校時代に出会い、以来ずっと親友として過ごして来た。
竜也は華族ではないが、裕福な家庭に育ち今は結婚して14歳の息子が1人いる。
仕事は、警視庁公安課で警視総監をしている。
その関係もあり、竜也は何度も鈴菱の息子の豊(ゆたか)の護衛をしている。
学生時代から何度も鈴菱家へ遊びに来ていた竜也と一緒に遊びに来ていた息子の哲也は豊とはとても仲が良かった。
今2人は同じ中学に通っている。
哲也が初めて和希と出会ったのも、竜也が豊の護衛をしていて、それが終わるのを待っている時だった。
「……以上が今の和希君の容態です。出血は多かったのですが命には特に問題ありません。ただ、切った時に神経を傷つけてしまったので、リハビリしだいですが、少々障害が残るかもしれません。」
「和希の左手が動かなくなるという事か?」
松岡の説明に鈴吉が聞き返す。
「いえ、日常生活にはさほど問題がないと思います。ただ、重い物を持つのができなくなったり、細かい作業はおそらくもう無理でしょう。」
「何だって、こんな事になったんだ!和希はまだ12歳なんだぞ!それなのに…」
悔しそうに鈴吉は言う。
「お父さん、それよりも和希君のこれからの事を考えてあげましょう。そうする事が和希君の幸せに繋がるんですから。」
鈴菱の言葉に鈴吉は頷く。
「で、何かもう考えているのか?鈴菱。」
「ああ、丹羽。」
竜也の問いに鈴菱は答える。
「その前に、以前お前に頼んでおいた久我沼の件はどうなっている?」
「あれか?その件ならもうそろそろ逮捕状が出る頃だ。しかし、久我沼って奴はたいした野郎だな。よくあそこまで出来たもんだ。横領に強姦、恐喝…叩けばまだまだ出そうだな。」
「そうか、ならいい。」
面白そうに言う竜也に、少し呆れた様に竜也を見る鈴菱。
「実は、妻の遠縁に養子を望んでいる老人が1人いるんだ。名前さえ継いでくれれば、老後の面倒もみる必要も無しで、財産を全て譲るそうだ。和希君の事を話たら気に入ってくれたらしく、先日調査したそうだ。」
「遠藤家の者か?」
「ああ。それで、先方は是非養子にって望んでくれてね。もちろん久我沼のした横領なども知っての上で望んでくれたんだ。養子になった後は鈴菱で豊の勉強相手として和希君を引き取ろうと思ってるんだ。」
「それがいいな。久我沼のままでは生きづらいだろうしな。しかし、今回の件で駄目になる可能性はないのか?」
「大丈夫だろう。今回は突発的な事故の様な物だ。和希君さえしっかりと自分と言う物を持っていれば何の問題も無いはずだ。和希君が気が付き次第養子縁組の手続きをして貰おう。」
今まで黙って聞いていた松岡が口を開く。
「それでは、これからの和希君の治療についてお話します。身体の傷は時間と共に癒えますが、心の傷はそうはいきません。和希君が目覚めなければ何とも言えませんが、おそらくは相当の心の傷を負っているはずです。それをどうフォローし、治療していくかは我々周りの人間の協力が必要になります。だた、これだけは言えます。思っている以上に大変だと言う事です。」
あれから1週間が経ったが和希は目を覚まさなかった。
点滴のお陰で顔色は良くなっていた。
ただ、左手首の傷は一生消える事は無いと言われた。
鈴吉はどんなに遅くなっても毎晩必ず和希の病室に寄っていた。
今夜こそは起きていて、愛くるしい笑顔で「おじい様」と呼んでくれると信じて。
今夜も眠っている和希の手を握る。
鈴吉は机の上の鈴香の写真を見ながら呟いた。
「鈴香も1人で寂しいだろうがまだ和希を連れて行くなよ。鈴香、お前は知ってたのに何故黙ってたんだ?和希が久我沼に虐待されてたのは、この2年だけじゃない。もう随分前から虐待されてたのだろう。なのになぜ私に相談をしてくれなかったんだ。言えば別れろと言われるのが怖かったのか?だが、和希の幸せを考えたら、黙っていたのがどんなに酷い事か解らなかったのか?鈴香、和希はこれからやっと幸せになれそうなんだ。和希の心の底からの笑顔を私は見てみたい。今まで苦しんだ分、これからは幸せな人生を送らせてやりたいんだ。それは鈴香も同じだと信じて良いんだろう?」
その時、鈴吉は微かだが和希の手が動いたのに気が付いた。
「和希!」
その声に答える様に和希の目はゆっくりと開いた。
そして静かに周りを見渡す。
「和希、私が解るか?」
鈴吉を見て和希は頷いて、一言言った。
「どうして…どうして死なせてくれなかったの、おじい様?」
「和希!」
鈴吉は和希の手を強く握る。
「何馬鹿な事を言ってるんだ!」
「もう…生きていたくない…」
「和希、もうお前を傷つける者はいないんだよ。久我沼は逮捕され、今は刑務所にいる。和希はこれから“遠藤和希”として新しい人生を生きていけばいいんだ。」
「…お母様に会いたい…」
「和希?」
「…何もいらない…何も欲しくない…お母様に会いたい…お母様の側にいたい…お母様に抱きしめて貰いたい…」
鈴吉は何も言えなかった。
今和希にはもう何も聞こえ無いだろう…今の和希が求めているものはただ1つだけだから…
松岡の言葉が鈴吉の頭を過ぎる。
『心の傷は簡単には癒えない。』
これからどうすれば、和希が生きる希望を見出して前向きに生きていけるのか、今の鈴吉には解らなかった。
和希が目覚めてから数日が経っていた。
和希はあの日以来一言も喋らず、何も口に入れようとはしなかった。
おそらく生きる気力を失ってしまったのだろう。
どうすればいいのか、周りの大人達は考えていた。
1度、伊藤啓太の話をした時、和希は微かにだが反応した。
「和希、そんな事では啓太君が心配するぞ。」
ビクッとほんの一瞬だが、和希の身体が動いたがそれっきりだった。
後はいくら啓太の話をしても、何の反応も無かった。
啓太に会わせるかどうか、悩んだ時期もあった。
だが、和希の意識が無い時に久我沼が逮捕された際、鈴吉は伊藤家を訪ねて頼んだのだ。
久我沼和希である事を忘れる為に、遠藤家に養子に入る事、鈴菱家でこれから暮らす事、その為に暫く和希とは会わないで貰いたいと言う事。
そして、和希が落ち着いたらまた以前と同じ様にお付き合いをして欲しいとの事を。
和希の幸せの為に、啓太も快く承諾してくれた。
次に会う時にはどんな華族になっているか、楽しみにして待っていると言って。
だから、今更頼める訳が無かった。
こんなに変わり果てた和希を啓太に見せる訳にはいかなかった。
そして、そんな和希を心配した竜也は、息子哲也を和希に会わせ様と考えた。
和希が退院したら新しく通うベルリバティ中学の3年生で生徒会長をしている哲也。
さっぱりとして、豪快な哲也の性格は同級生はもとより、下級生からも慕われている。
そんな哲也なら、もしかしたら頑なに閉じこもっている和希の心の扉を開く事ができるかもしれないと、竜也は思った。
「…と言う訳だ。どうだ?引き受けてくれるか?哲也。」
「ああ…別に構わないぜ、親父。」
「いいのか?」
「俺の後輩になる奴なんだろう?それに豊の親戚とくれば、尚更だ。」
「悪いな。だが、今話した通りの状態だ。簡単にはいかないぞ。誰にも心を開いてないんだ。目は開いてはいるが、その目には何も映って無い。息をしているだけで、その口は何も喋らないんだぞ。」
「それこそやりがいがあるじゃないか。第一うちの中学に途中編入できる奴なんて、相当頭の良い奴しかいないはずだぜ?直ったら俺が直々に生徒会で可愛がってやるぜ。」
「全く何考えてるんだ?哲也。まさかそれが本音か?」
「いいだろう、別に。さてと、そうと決まれば、早速様子を見に行くか?」
「今からか?随分気が早いな。」
「敵の偵察は早めの方がいいだろう?遠藤和希か…どんな奴か、まずはお手並み拝見といくか!」
楽しそうに哲也は笑った。
竜也からの連絡で、哲也が和希が入院している病院に着いた時、病院の入り口には、和希の付き添いをしている女性が待っていてくれた。
付き添いの女性の案内で哲也は和希の病室に入っていった。
個室のベットの上に和希は座っていた。
「和希様、丹羽哲也様がお見えになられましたよ。」
付き添いの女性にそう言われても、和希の反応は何も無い。
哲也はツカツカと和希の側に近づくと、ベットの側の椅子にドカッと座り和希に話し掛ける。
「お前が遠藤和希か?俺は丹羽哲也。今度お前が通う事になったベルリバティ中学の3年で生徒会長をしているんだ。よろしくな。」
そう言って手を差し伸べたが、和希は哲也を見ず、そのまま黙って前を向いたままだった。
差し出した手を引っ込め哲也は頭を掻いた。
「確かに親父の言った通りか…」
ため息を付きながら、哲也は竜也から聞いた言葉を思い出していた。
“生きてはいるが、ただそれだけだ。何も見ようとはしない、何も考えようともしない。まるで人形の様だ。”
「さてと…どうするかだな。」
哲也は考える。
これは思った以上に骨が折れそうだ。
だが、障害は多い程やり甲斐があるというものだ。
どうやってこいつを、遠藤和希を血の通った普通の人間に戻すか、哲也は考え始めた。
よく見ると、男なのに綺麗な顔をしている。
薄茶色のサラサラの髪。
哲也はこの時思った…見てみたい、こいつの笑顔を。
その為だったら自分に持てる全ての力を使って、こいつの笑顔を見てやる!
そう心に誓った。
「まずはおの事をこれからは“遠藤”って呼ぶからな。よろしく頼むぜ。」
哲也はニカッと笑って和希を見詰めた。
何も答えない和希だったが、何故か哲也の“遠藤”と言う声が閉ざされた心の扉に触れたのには気付かなかった。
それから哲也は時間が空く限り和希に会いに来ていた。
しかし、来て何をするわけでもない。
付き添いの人から毎日お菓子と飲み物を貰い、それを食べながら今日あった出来事を話してきかせるだけだった。
そんな毎日だったが、ある日和希に変化が現れた。
哲也が来るとほんの僅かだが表情が和らぐのだった。
それはよく見てないと解らないくらい些細な表情だったが確かに穏やかな顔つきになるのだ。
そして…その日哲也が何気なく話した話の途中で和希に驚くべき変化が起こった。
和希の目から涙が流れたのだった。
慌てて呼ばれた松岡は哲也に聞いた。
「哲也君、これはいったいどうしたんだ?」
「俺にだって訳が解らねえよ。話をしてたら遠藤の奴がいきなり泣き始めたんだ。」
和希の涙をタオルで拭きながら松岡はさらに哲也に尋ねた。
「いったいどんな話をしてたんだい?」
「どんなって…お袋の話をしてたんだ。」
「お母さんの話を?」
「ああ。だけど特に変わった内容じゃなかったんだけどな。」
「そうか…お母さんの話に和希君が反応を示したのか…」
松岡は考えた。
和希は母親にもの凄く会いたがっていた。
辛い現実から逃げ出したくて、優しかった母親の元に行きたがっていたのだ。
今まで誰も和希に鈴香の話はしてこなかった。
それを聞くのは和希が辛いと思ったからだった。
でも、今哲也の母親の話に和希は反応したのだ。
もしかしたら、このままこちらに帰って来れるかもしれない。
今がそのチャンスだと松岡は思った。
「哲也君、悪いがそのまま話を和希君に聞かせて貰えないかな。」
「お袋の話を?別にいいけどよぉ。特に変わった話なんてないぜ。」
「それがいいんだ。ごく当たり前な日常生活を和希君に聞かせてやって欲しいんだ。」
そのまま松岡はそこにいて、哲也の話を聞きながら和希の様子を見守っていた。
確かに大きな変化はあまりなかったが、哲也の話に確かに和希は反応していた。
そんな中、哲也は鈴香の写真に気付き、それを手に取り、
「これが遠藤のお袋さんか?綺麗な人なんだな。なぁ遠藤、お袋さんが亡くなって辛い気持ちは解るぜ。でも今の遠藤を見たらお袋さん、きっと悲しむぜ。遠藤だってそんなお袋さんの悲しい顔なんて見たくないだろう?早く元気になって遠藤の笑顔を周りの人に見せてやれよ。そうしたらきっとお袋さん喜ぶぜ。」
その時だった。
今まで動かなかった和希の右手が動き、髪の毛を掴むと、一言だけ呟いた。
「お…母…様…」
小さい声で、でもしっかりとそう呟くと和希は意識を飛ばしその場に倒れ込んだ。
その晩、松岡から連絡を受けた鈴吉、鈴菱、竜也の3人は和希の病室に来ていた。
夜遅かったのでもちろん哲也は家に帰っていた。
「それで和希の様子はどうなんだ?」
鈴吉の問いに松岡は答える。
「まだ確定ではありませんが、おそらく和希君の意識は戻ると思われます。」
「それは本当か?」
「はい、おそらくですが。」
鈴吉にそう答えた松岡は竜也に話し掛ける。
「丹羽さん、さすが貴方の息子さんですね。まさかあんな方法で和希君の心の扉を開かせるとは思いませんでしたよ。」
「あいつがか?」
「ええ、さすが…としか言えませんね。やはりベルリバティ中学で生徒会長をしているだけの事はありますね。」
「哲也君は優しいからな。」
鈴菱は言う。
「鈴菱、からかうな!」
「いや、本当の事だろう?丹羽と違って哲也君はお母さん似の優しい性格だからな。」
「こいつ…」
竜也は鈴菱を睨むが鈴菱はニヤッと笑い返しただけだった。
その時、和希の目が開いた。
「和希!」
鈴吉はそう叫びながら和希の手を握った。
和希は真っ直ぐに鈴吉を見詰めながら言った。
「…おじい様?どうしてここに?それにここはどこ?俺なんでここにいるんですか?」
そこまで言った時、小刻みに和希の身体が震えた。
「あっ…俺…俺…あの男に…」
涙を浮かべながら震える和希の身体を鈴吉はギュッと抱きしめた。
「和希、もう何も言わなくていい。全て終わった事だ。もうお前を脅かす者はいなくなったんだ。だから安心するがいい。」
「おじい様…」
「おじい様の言う通りだよ。今日から君はもう安心して暮らせるんだよ。直ったら家に来てくれるね?妻と息子も待ってるからね。」
「おじ様…」
「和希君、君はもう十分苦しんだんだ。今度は幸せになる番だよ。今までよく1人で頑張ってきたね。」
「迅先生…」
抱きしめてくれている鈴吉に向かって和希は言った。
「ごめんなさい、おじい様。心配ばかり掛けてしまって。」
「本当に仕方のない子だな、和希は。もう勝手にこんな馬鹿な事をしたら絶対に許さないからな。」
「はい、もうしません…ありがとうございます…おじい様…」
そう言うと和希は昔の様に鈴吉に抱きついた。
閉ざされた心の扉を優しく何度も叩きながら語りかけてくれた哲也によって、和希は長い眠りから目覚めた。
これからの数年間、哲也と過ごす学生生活は和希の人生の中で1番輝く時間になっていく。
しかし、幸せの時間は刻一刻と今まで以上の不幸な時間へと向かって進んで行くのでもあった。
それからは、毎日が慌ただしかった。
忙しい鈴吉や鈴菱の代わりに、和希は竜也から和希が眠っていた時の事、そして心を閉ざしていた時の事を教えて貰った。
まず、久我沼が今まで起こした事件、そして逮捕。
和希の将来の為に遠藤家と養子縁組をした事、これから鈴菱家で暮らす事、ベルリバティ中学への編入。
そして、まず最初に和希がする事は体力の回復と、左手のリハビリ。
ベルリバティ中学への編入…本来なら有名私立校の為、編入試験が必要なのだが、今まで通っていた中学の成績が優秀なのと鈴菱家の推薦があった為に無試験で入学が認められたが、和希がそれを嫌がった。
特別扱いは嫌だと言って…
そして例外ではあったが、まだ出歩けない和希の為に特別にベルリバティ中学の校長、副校長、学年主任の3人の先生方計5名によるペーパー試験と面接が病室で行われた。
まだ左手を動かすのには不自由があったが、ペーパー試験に関しては5教科全て予定時間より早く説き、しかも全問正解。
面接に至ってはとても12歳とは思えないしっかりとした考え方、話し方に、何の問題もなく合格を手にした和希だった。
和希の心を開いてくれた哲也に和希は心の底から感謝をして、そしてそれは直ぐに尊敬と憧れに変わっていった。
哲也も和希を気に入り、暇を見つけては今まで通り和希の病室に来て、左手のリハビリを手伝ってくれていた。
「痛っ!!」
「何だ?遠藤、このくらい我慢しろよ。」
「そんな…無理ですよ、丹羽先輩。もう少し優しくして下さいよ。」
「それじゃ、リハビリにならないだろう?」
「いくらリハビリだからって…」
プクッと頬を膨らませる和希を哲也は愛しそうに見詰める。
「全く、根性がねぇんだから。」
「俺は丹羽先輩とは違います!」
ふて腐れたまま和希は答える。
そんな和希に哲也は降参する。
「まあ、仕方ねえか。解った。今日はここまでだ。」
「いいんですか?じゃあ、今日学校であった話を聞かせて下さい。」
和希は笑顔で哲也に頼む。
哲也は和希の笑顔には弱かった。
哲也が思っていた以上に和希の笑顔は綺麗だった。
だが、それがまだ心の底から微笑んだ笑顔でない事を哲也は知らない。
和希の心の底にはまだまだ直りきらない傷が無数にあり、和希自身もその傷の深さに気付いてはいなかった。
それでも、今の和希は笑う事ができた。
哲也から聞くベルリバティ中学の話は和希に学校へ通う喜びを教えてくれた。
「そう言えば遠藤はまだ豊に会ってないんだろう?」
「はい。お忙しい方なんですよね。退院したらお会いする事になってるんですが、どんな方なんですか?」
「いい奴だぜ。華族だからとか庶民だからとか気にもしないしな。ただちょっとばかし、人を見下す癖があるんだよな。それさえなきゃもっといい奴なんだけどよう。」
「鈴菱の本家の跡取りの方なんでしょう。仕方ないですよ。」
「けどよお…人の上に立つ者があまり下の者を見下すのってのはよくないぜ。」
「まだ12歳なんですよ。これからですよ、きっと。」
哲也はじっと和希を見詰める。
その視線に気付いた和希は、
「どうしたんですか?丹羽先輩。」
「いや…お前って本当に優しいなって思ってさ。」
「えっ…?」
「遠藤だって華族なんだろう?なのにさ。」
和希は少し困った顔をした。
確かに遠藤家は格が上の方の華族だ。
ただ、和希自身はいくら母が鈴菱本家の華族とはいえ、父は庶民だったので、同然今までの暮らしも庶民の生活だった。
「遠藤家って言ってもピンからキリまでありますからね。」
少し寂しそうに和希は微笑む。
これから“遠藤和希”として生きていく以上、今までの“久我沼和希”は無いものにしなくてはならない。
それはこれから出会う全ての人に対して嘘をつく事だった。
仕方がないとは頭では解っていた。
でも…哲也に対して嘘をつく事は嫌だと思っていた。
嘘が嫌いな真っ直ぐな哲也に和希は嘘を突き通しながら付き合っていく事になる。
それでも…“久我沼和希”と知ったら、哲也は今の様に和希に接してくれるだろうか?
おそらくは無理だと思う。
だったら…いけない事だとは思う。
けれど、今この手を離したら、和希は1人で生きていく自信がなかった。
無意識のうちに和希は哲也に先輩以上の想いを寄せていた。
それは哲也も同じだったが、お互いに先輩、後輩としての思いしかないと思っている和希と哲也だった。
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