未来への扉 7

「えっ?ここがお母様の育った家?」
車から降りた和希はビックリして言った。
確かに鈴菱グループの本家なのだから、大きくて立派なのは解るが、和希が以前住んでいた家が家だけに唖然としてしまう。
お母様はよくあんな家(久我沼家)に住めたものだと、和希は心の中で感心していた。
驚いて呆然としている和希を松岡は優しく見詰める。
「そうだよ、ここが君のお母さんの生まれ育った家だよ。そして今日からは和希君が暮らす家でもあるんだよ。」
「あの…迅先生。俺本当にここで暮らすんですか?」
「んっ?何か不満でもあるのかい?」
「いいえ、そうじゃなくて。なんていうか身分違いの様で、俺なんかには無理ですよ。」
不安そうに言う和希に思わず松岡は笑ってしまった。
「面白い事を言うんだね、和希君は。でも本当に君は今日からここで生活していくんだよ。それからここが和希君のおかあさんの家っていうのは内緒だからね。君はあくまでも“遠藤和希”なんだからね。」
「あっ…はい!」
「さあ、中に入ろう。おじい様達はまだ仕事でいないが、豊君はもう帰ってきているはずだからね。」
松岡の後について、家に入る和希。
「おかえりなさいませ、和希様。松岡様もお疲れ様です。」
そう言って挨拶したのは、鈴菱家の執事の石塚祐輔。
「和希君、こちらは鈴菱家の執事の石塚さんだよ。この家の事は何でも知っているから解らない事は彼に聞くといいよ。」
「はい。よろしくお願いします、石塚さん。」
「こちらこそよろしくお願いします。解らない事がございましたなら、遠慮なさらずに何でも聞いて下さいね、和希様。」
「は…はい…」
“様”付けで呼ばれてしまい、和希は緊張してしまう。
その時…
「迅先生、その子ですか?今日から俺の勉強相手に引き取られた子って。」
奥から出てきたのは、品の良さ様な男の子だった。
「豊君、そうだよ。君の母上の親戚の子で、遠藤和希君だよ。」
「ふ〜ん。」
豊は和希をじろじろと見た。
「あ…あの…」
途惑う和希を無視して松岡に不満を言う豊。
「今更勉強相手って言われてもねえ。俺も困ってるんですよ、迅先生。」
「どうしてだい?」
「だって、考えてもみて下さい。小さい時ならいざ知らず、俺はもう12歳なんです。中学1年生なんですよ。勉強相手が必要な歳なんかじゃありません。それよりもこの子、何か訳ありなんですか?」
嫌そうに豊は和希を見る。
和希は困ってしまう。
「第一その子左手が不自由だと聞きましたけど。それにずっと田舎暮らしだったんでしょう?何で今更“鈴菱”の、しかも本家に来るんですか?」
「豊君、その話は父上から聞いているはずだと思うんだけどね。和希君の両親が都会での生活をさせたいと願ったからだと。」
「ええ、聞きましたとも。でもどう考えたっておかしいですよ。だいたい、本当にそうなら4月にここに来るべきでしょう?それなのにこんな時期に来るなんて、変です。」
「それは、色々と訳があるんだよ。」
「大人の事情ですか?父さんもそんな事言ってましたけどね。でもそれって、誤魔化したい時に大人がよく使いますよね。」
豊は大きくため息を付くと、
「その子、遠藤家の愛人の子なんでしょう?で邪魔になったんで厄介払いってとこですか?」
「豊君!」
松岡が厳しい口調で言う。
「憶測で物事を言ってはいけない。まして人を中傷する事は品の無い行為だと教わらなかったのかい?」
豊はバツの悪そうな顔をする。
「ごめんなさい。迅先生。」
「解ればよろしい。人の上に立つ者は、それなりの考え方ができないといけないからね。それと謝るのは私ではなく、そこにいる和希君だと思うがね。」
豊は暫く俯いた後、顔を上げて和希に言った。
「悪かった。」
そんな豊を見て、和希は申し訳なさそうに言う。
「俺こそごめんなさい。俺が来た事によって豊さんの気分を悪くしてしまって。ご迷惑だと思いますが、今日からお世話になります。」
「和希君。」
「迅先生にもご足労お掛けしました。俺もう大丈夫ですから。」
「本当に平気かい?」
「はい。困ったら石塚さんに聞きますから、安心してくださいね。」
和希はニコッと笑って答える。
その笑顔は鈴香がまだ生きていた頃、よく見せていた笑顔と同じだった。
もう大丈夫だろう…と松岡は思った。
松岡は豊の方を向いて、
「そうだ、面白い話を1つ聞かせてあげよう。和希君はベルリバティスクールの編入試験、5教科全て満点だったんだよ。」
「えっ?5教科全て満点?」
「ああ、だから豊君の勉強相手に選ばれたと思うよ。田舎者だとみくびると、火傷をするよ。」
「参ったな…」
豊は頭を掻くと、和希に向かって手を差し出した。
「さっきは悪かった。これからよろしくな。」
和希は破顔で手を差し出して答えた。
「こちらこそ、これからよろしくお願いします、豊さん。」
握手をする2人を、松岡は暖かく見守っていた。


鈴菱家で和希に与えられた部屋はとても立派で和希は途惑ってしまったが、豊に「和希は今日から俺の弟になるんだからこれくらい当然だ。」と言われて何も言い返せなかった。
鈴菱家に養子に入った訳ではないのだが、今日1日豊と過ごしたせいか、もの凄く和希は豊に気に入られてしまったようだ。
「困った事があったら、俺のとこに直ぐ来いよ。」
そう言われて豊と別れ和希が自分の部屋に戻ったのは、夜の10時過ぎだった。
部屋に入ると、和希はため息を付いた。
慌ただしい1日だった。
初めて来た母鈴香の実家。
そして従兄弟の豊との対面。
“遠藤和希”としての自分を作る難しさ。
夕食に姿を見せなかった祖父、叔父、叔母。
豊は3人共仕事が忙しく、いつも夕食は1人だと言っていた。


「おじい様やおじ様、おば様がまだ帰って来ていないのに、先に頂いていいんですか?」
夕食を食べる為に席に着いた和希は、途惑い気味に豊に聞いた。
「ああ、待っていたって何時に帰ってくるかなんて解らないんだから。3人共それぞれに仕事を持っていて忙しいんだ。夕食なんていつも一緒になんて食べないよ。」
「えっ、それじゃ豊さんはいつも1人で夕食を食べているんですか?」
「ああ。でも物心が付く頃からそうだったから、寂しいとか感じた事はないぜ。」
「…」
何でもない事の様に言う豊に、和希は驚きを隠せなかった。
そんな和希の様子に気付いたのか豊は笑って言った。
「でも、1人の食事も昨日までだ。今夜からは和希が一緒にいてくれるんだろう?沢山話をしながら食べような。」 「はい、豊さん。」
豊は本当に楽しそうに話しをしながら、食事をしていた。
もちろん和希も久しぶりに会話をしながらの食事を楽しんでいた。


豊が席を外した時、和希は石塚から礼を言われた。
「ありがとうございました、和希様。」
「えっ?」
「御夕食の件です。豊様が食事を残さず食べる事など滅多にないものですから。」
「そうなんですか?でも豊さん、どれも美味しそうに食べていましたよ。」
「それは和希様のおかげです。和希様が豊様とご一緒にお食事を召し上がったからです。」
「でも、俺は別に何もしていませんよ?」
「いいえ。和希様がご一緒にいてさしあげて、楽しく会話をして下さったので豊様はとても嬉しかったんだと思います。豊様のご両親はそれぞれにお仕事をお持ちでとても忙しい方なので、豊様はご両親とあまりゆっくりと過ごした経験がない方なのです。私共、使用人は沢山いますが、豊様にとってはいつも1人でいるのと変わりないのです。ですから、きっと誰よりも和希様の事を待っていたのは豊様だと思ってます。豊様はいつも周りを大人達に囲まれてきました。そのせいか、少々困った言い方をなさる時があると思いますが、どうかあまりお気になさらないで下さい。これからも豊様の事をお願いします、和希様。」
「いえ、こちらこそご迷惑をお掛けしない様気を付けますので、よろしくお願いします。」


和希はその時の事を思い出しながら呟いた。
「俺と同じ歳なのに随分と違うんだな…」
最初から華族と庶民が同じだなんて思ってはいないが、同じ様に家族がいて生活しているのだから根本的な所は同じだと和希は思っていた。
豊は小さい時からいつも両親が仕事でいなかった。
赤ん坊の頃は乳母が、少し大きくなると家庭教師や教育係がいつも側にいた。
だからけして1人ではなかった。でも…
和希は久我沼から暴力を受けてはいたが、母鈴香はいつも惜しげ無しに和希に愛情を注いでくれていた。
鈴香はいつも和希の側にいてくれた。
だから和希は鈴香が亡くなるまでいつも母と食事をしていた。
祖父鈴吉も鈴香が亡くなる前も後も変わらず毎月和希と会い、沢山の話をしてくれたし、美味しい食事も一緒にしてくれた。
医師の松岡も鈴香の診察が終わると、和希と遊んだり、勉強を見てくれていた。
特に鈴香が亡くなった後は、月命日には必ず来てくれて、日常生活に必要な物を持ってきてくれたり、和希の健康の事や普段の生活の話、そして勉強をよく見てくれていた。
そして、何よりも幼なじみの啓太がいてくれた。
啓太の両親は、和希を啓太と同じ様に接してくれた。
だから鈴香が亡くなってからは今まで以上に和希の事を気に掛けてくれていた。
和希の周りにはいつも和希を思ってくれる人がいて、愛情を注いで貰っていた。
辛い事も沢山あったが、それ以上に幸せな事も沢山あった。
今の和希にはそれが解っている。
あんな事をしてしまったが、生きてて良かったと今更ながらに思う。
まだ、上手く動かない左手を右手でそっと触れる。
手首の傷は一生消えないと言われたが、和希はそれでもいいと思っている。
弱かった自分を戒める印として、和希はこの傷を愛しく思っていた。
もうどんなに辛い事があっても、2度とこんな馬鹿な事はしないとこの傷に誓った。
そう思える力を和希に与えてくれたのは、養父の遠藤だった。
遠藤の1言は和希にさらに強く生きる力を与えてくれた。


和希がここ鈴菱家に来る数日前、鈴吉達には内緒で養子縁組をしてくれた“遠藤”という老人に和希は会って来た。
養子縁組をしてもらったが、和希は断るつもりだった。
自分で自分の命を絶とうとした事実…それはどんな理由があろうとも人として許される事ではない。
そんな自分が周りの厚意にのみ甘えてはいけない。
自分のした行動には責任を取らなくてはならない。
和希はそう思っていた。
だから、1度も合わなくていいと言ってくれた遠藤に会って、きちんと真実を話さなくてはならない。
そして養子縁組をなかった事にして貰おうと強く思っていた。


松岡に無理を言って連れてきて貰った遠藤の家は緑が多い郊外にあった。
立派な建物に圧倒されながらも、松岡と共にその家のブザーを鳴らした。
「はい、どちら様ですか?」
「約束をした松岡です。」
「伺っております。どうぞ中にお入りになって下さい。」
そう言って開いた門の中に入ると、玄関までの間はそれは見事な西洋風庭園だった。
そして建物の扉を開けると、待っていたのは執事と車椅子に乗っている老人だった。
あの車椅子に乗っている人がおそらくこの家の主遠藤なんだろうと和希は思った。
松岡は丁寧にお辞儀をすると、
「お忙しい中、お時間を取らせて頂いて申し訳ありません。」
「いや…その子が和希か?」
「はい。久我…いえ和希です。」
「私は確か書類だけで構わないと言ったつもりだったが。」
「はい。確かにそう伺っております。」
「それでは今日はどうしてここに?」
「僕がお願いしたんです。」
「和希君…」
和希を止めようとした松岡に遠藤は声を掛けた。
「構わない。話してみたまえ。」
「僕を養子に望んでくれた事はとても感謝してます。でも…」
和希は左腕を右手でギュッと掴んだ。
「でも…僕は卑怯者です。こんな僕を養子にしても構わないのかどうか、どうしてもお聞きしたくて、今日はここに来ました。」
「ほう。君は自分の事を卑怯者だと思っているのかい?」
「はい。」
「その理由を聞かせて貰っても構わないかな。」
「はい。僕は久我沼の母が亡くなる前からずっと久我沼の父の暴力を受けて育ってきました。でもあの日…久我沼の父が僕をお金で売った日、もう生きているのがイヤになったんです。生きていたって良い事なんて1つも無い。それどころか、辛い思いばかり。あの時の僕はただ辛い毎日から逃げて、優しかった母の元に行きたかったんです。」
和希は先程よりもしっかりと遠藤を見て言った。
「だから僕は自分で自分の命を絶とうとして手首を切りました。」
遠藤は顔色1つ変えずに和希に聞いた。
「しかし、君は生きてここにいるんだね。」
「はい。松岡先生に命を助けて貰いました。そして祖父や叔父に逃げようとしていた自分の弱さを指摘されて、これから強く生きる様に諭されました。僕は今まで事を荒出させたくなくて、ただ自分が我慢すれば全てが丸く収まると信じていました。でもそれは間違いだったんです。どんなに辛い事でも言いずらい事でもきちんと話し合う必要があると気が付いたんです。間違ってる事は間違ってると言える強さが僕には必要だったんです。その事に僕は気付きました。」
「それで?」
遠藤は静かに和希に問う。
「でも…どんな理由があろうとも、自分で自分の命を絶つという行為は許されるものではありません。ですから、折角のご厚意ですが養子縁組はなかった事にして貰いたいんです。」
「和希君!」
隣で聞いていた松岡が慌てて声を掛ける。
「君はいったい今自分が何を言ったのか解っているのかい?」
「はい、迅先生。解ってます。俺は養子縁組を無かった事にして貰う為に今日ここに来たんです。」
「和希君、おじい様やおじ様がどんな思いで君の養子縁組を考えたのか解っているのかい?全て和希君の将来の為なんだよ。それをこんな形で駄目にしていいわけないだろう。」
和希は辛そうな顔で松岡を見る。
「解ってます。おじい様やおじ様、迅先生がどんなに俺の事を考えてくれているかなんて。でも…駄目なんです。俺はこのまま皆の優しさにばかり甘えていちゃいけないんです。自分でした行動の責任は自分で取らなくてはならないんです。俺には皆の厚意を受け取る資格なんてないんです。」
「資格が無いと思っているのか?」
今まで黙って聞いていた遠藤に聞かれ、和希は頷いた。
「はい。僕は自分のした行動には責任を取りたいんです。だから…」
「なら、そのまま私の養子でいなさい。」
「えっ…?」
「人間は誰しも道を誤る事がある。大切なのはその後だ。君は自分の過ちに気付き、責任を取ろうとしている。その歳で見上げた根性だ。さすがあの鈴菱鈴吉が私に紹介した人物だ。気に入った。」
「あ…あの…」
和希は途惑ってしまった。
この養子縁組を進めてくれてたのが鈴吉だったなんて知らなかったのだ。
「私はよい子を養子にできて、幸せ者だと思わないかね、河本。君もそう思うだろう?」
遠藤の隣に立っていた執事の河本も笑顔で頷く。
「はい。やはりご主人様のお目にかなった方ですね。」
そう言うと河本は和希の方を向き、
「和希様、良かったらこれからもこちらに遊びにいらして下さいね。何もない田舎ですが自然の恵みだけは沢山ありますからね。」
「河本さん…」
「ご主人様とお待ちしております。」
「あっ、こちらこそこれからよろしくお願いします。」
和希は河本に頭を下げると、隣の遠藤に向かって、
「時々遊びに来ても構いませんか?…お父様…」
顔を赤くして言う和希の手を優しく握りながら遠藤は微笑んだ。
「自分の家に帰って来るのに、遊びに来るはないだろう?“ただいま”と言って帰って来るんだ。いいな和希。」
「はい!」
満べんな笑顔で和希は答えた。



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